忘れた頃に雑誌《南都娱乐》の続きです😂
文字ばかりで読みづらいかと思いますが、小さい頃のお話や学生時代、社会人時代について詳しく語られていてとてもおもしろいです。
どこかで目にしたお話が肖战さんの口から語られたことを交えて書かれています☺️
これもほぼ需要はないかと思いますが💦
もしもお時間とご興味がございましたらお付き合いください🙇♀️
元記事のリンクです↓
今回も微信の自動翻訳機能をお借りつつ、わからないところは自分で調べて内容を把握するために日本語にしてみたいと思います。
(自動翻訳は文章ごとスポーンと抜けてたりするので油断ならない💦)
今回も間違い等多々あるかと思います。
ご指摘いただけると大変嬉しいです☺️
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「段階を追って」成長
「限られた環境の中でベストを尽くす」
この夏に急速に人気が高まったことで、「肖戦」という言葉がインターネットで「たくさん書き込まれた」。
「肖戦」という名前について言えば、素晴らしい「偶然」もある。
現在、肖戦を愛する多くのファンは、音が同じで賞賛に値する演技だからと愛情を込めて彼を「小賛」と呼んでいる。
実は肖戦は「肖賛」と名付けられるところだったそうで、両親が自分に名付けた当時の興味深いエピソードを披露してくれた。
「僕の名前はすごく適当で、もともと『点賛(いいね)』の"賛"のような字を使いたかったんです。」と笑顔で語った。
「この『賛』は少し難しいな、子供でも書けるだろうか?と両親が言い、簡単なものに変えて肖戦と名付けられました。」
記者は考えを言った。
「『戦』という字はとてもクールだけど子供の名前を付けるときには皆めったに使いません。」
肖戦はその場をすぐに"アムウェイ(強く勧める)"モードをオンにした。
「じゃあ、それを使いましょう!とても良い名前だと思います。僕はこの字がとても好きです。ははは!」
肖戦は1991年生まれで、彼の説明によると、かなり伝統的な中国式の家庭で育ち、家族は彼に多くの愛と保護を与え、「非常に正しい三観(世界観、人生観、価値観)」を教え込んだという。
両親は肖戦の文化科目の成績を高く評価するだけでなく、同時に総合的な教養の育成にも特別な注意を払った。
そのため肖戦は「少年宮(小中学生が課外活動での文化教育活動を行う施設)の常連」として幼少期を過ごした。
肖戦はインターネット上で自分の「多芸多才」に対する賞賛について「うーん?!」と長い疑問の声をあげ、こう説明した。
「その多くは小さい頃に学んだものです。ハハハ、ただの上っ面の知識でまあまあです。」
ヴァイオリンや囲碁など、彼の言う「上っ面の知識」は確かに両親に習わされたものだが、唯一美術のクラスは肖戦自身の興味からのものだった。
彼が8歳のとき、願い叶って本格的に絵の勉強を始めた。
この専門分野もずっと彼がし続けているものだ。
肖戦の家には、幼稚園の頃に撮影されたビデオが今も残されており、当時、幼かった肖戦がカメラに向かって自分の理想を語るのを録画してある。
画家になること。
それは後にイラストレーターやデザイナーになるという理想に変わった。
中学時代、肖戦も他の多くの子供たちと同じように「良い大学に入学する」ことを期待されていた。
この全体的な方向性から彼が逸脱することはなかった。
初期段階で、は重慶の重点高校に入学した。
クラス分けで彼は文系クラスを選択した。
「美術を学んでいたから文系にプレッシャーもあまりなく、わりと暗記も早かったし、政治、歴史科目はまあまあできたから。」
肖戦が自分のことを語る中で、当時思春期には「反抗」もあったと言う。
「高校時代は絵を描くのが好きで、成績はそれほど良くなく、 中級レベルでした。
両親はとても気を揉んで勉強させて、遊ばてくれなませんでした。
時々衝突することもありました(笑)。
僕も母親と口喧嘩をして母にお皿を投げさせたこともあります。」
大学受験の年、肖戦は思いがけず「不合格」となり、最も得意としている美術科目で理想のスコアを獲得できなかった。
人生一度目の分岐点だ。
父親の浪人したらどうか、という提案を拒絶し、18歳の彼はすでに"受け入れる"ことをわかっていた。
肖戦は記者に「今思えば心から望んだことではなかったけれど、当時その結果を受け入れたことは良かったと思います。
限られた環境の中でベストを尽くすこと。」
肖戦の大学期間の履歴を見れば、結論を導き出すことができる。
これは単なる「空論」ではない。
インターネット上には彼の大学時代に関する「伝説」がたくさんある。
それらの少し誇張された記述は主に彼の才能と容姿を証明するためのものだ。
過去にはメディアが彼に検証を求め続けたが、いつも「普通の人」と答えていた。
しかし、「考証」を注意深く研究すると、『学覇校草』のタイトルには「辿るべき痕跡」があるように思える。
重慶工商大学でデザインを学んでいた期間、肖戦は、非常に積極的な「文芸術活動家」であり、入学時からクラスの文芸委員になった。
歌が好きな彼は大学の芸術合唱団に入り、芸術団の声楽部長、男声部部長を務めた。
同時に大学の俳優になるための言語芸術分団にも加わった。
2年生の時、肖戦はキャンパス歌唱コンクールで「トップ10キャンパス歌手」の名誉称号を獲得し、その後、学校を代表して重慶市コンクールに出場して「重慶キャンパス歌手コンクール」で2位を獲得した。
聞くところによると重慶商工大学のさまざまな公演に出演し、常に肖戦の姿が見られたようだ。
同校の創立60周年記念パーティーでは、歌の演目でオープニングソロも務めた。
専門分野でも肖戦は同様に際立っていた。
在学中に同校主催の公益ポスターデザインコンテストで「最優秀賞」と「最優秀人気賞」を受賞。
「あちこち動き回るのが好き」と自己評価する肖戦は2012 年に数人の親しい友人たちと「大学生ビジネス」を始めた。
彼らはデザインスタジオを設立し、ロゴとヴィジュアルデザインの小さな仕事をいくつか請け負い始めた。
同時に写真スタジオを設立し、メインカメラマンとして活動。
その後、肖戦はデザイン会社にインターンシップに行き卒業後もそのまま残り、インターンシップ期間を含めると計2年間デザイン業界で働いた。
多くの人の印象では「乙デザイナー」の日常は「あまり話すと涙が出てくる」ことが多いが、肖戦は特に「幸運」だった。
「デザイナーは比較的弱いですが、上司が僕たちを守ってくれて無理な要求はブロックしてくれました。」
「クライアントが『色ある黒』を要求するなど、理不尽な要求もいくつかありました。
ははは、上司がすでに僕たちのために『フィルタリング』していたのかもしれません。」
肖戦もまた、甲の顧客と何度も「バトル」を繰り返した瞬間があったが、これらの仕事の経験の中でデザインとコミュニケーションのスキルが大幅に向上したと感じている。
少し前、メディアのインタビューで「あなたが最も誇りに思っていることは何ですか?」と尋ねられ、こう答えたことがある。
「競争の激しい業界で、自分の(デザインした)ロゴをたくさん販売することに成功しました。
以前の業界で非常に良い仕事をしたと誇りを持って言えます。」
過去を懐かしむ世間話の最後に、最近業界で流行っているジョークを肖戦に伝えた。
彼は仕事に対して非常に協力的なので、業界で「さすがは前に"乙側"だった芸能人だけのことはある。人の身になって思いやれる。」と冗談を言い賞賛する人も少なくない、と。
このコメントを聞くと彼は長い間面白がってこう言った。
「それは、乙であるかどうかとは何の関係もないと思います。
子供の頃からの家庭環境 の影響ですね。
子供の頃から父母に"人の立場になって考えなさい"と言われてきました。
双方どちらも気持ちの良い環境で、みんながより楽しく働ける環境を作る 、その方が良くないですか?」
漠然から堅固へ
「チャンスが来たら、それを掴もう」
実際、肖戦は自分の容姿が優れていることに気づいていなかったし、エンターテインメント業界に進むことを考えたこともなかった。
それどころか初めてカメラの前に立ったとき、自分の「1.8倍に拡大された」顔に衝撃を受けたという。
「うわー!なんでそんなに大きいんだ!」
その後芸能人になることについて、肖戦は2つの「偶然」を使って説明した。
父親は「遊んで帰っておいで」と応援し、デザイン会社の上司は「遊び終わったら戻ってきて」と言った。
肖戦は次々と応じていったが、まさか現在ここまで来るとは誰も思っていなかった。
「遊ぶ」という状態でも、肖戦は戦うことにおいて決して手を緩めはしなかった。
本誌が彼に初めて会ったのは2016年初め、決勝戦前夜の練習室であったが当時執筆していた記者の印象では、当時の肖戦は「輝くようなハンサム」というよりも「とても穏やかで、優しい」だった。
「優しさ」の反対は彼の頑固さと粘り強さだ。
当時彼はダンスの練習中の精神状態を「崩壊」と表現し、「20年以上腱を伸ばしていなかったのに、急にこの歳になって腱を伸ばさなければならなくなって辛いです!」と語った。
番組内でも紹介されていたが、ダンスの練習中に無理な力が加わって足の親指の爪が剥がれてしまった。
しかし、彼は決して諦めようとは思わなかった、「とても苦しいことだけど、決断したのだからそれを貫き通して、しっかりやり遂げよう。」
今振り返ると肖戦は、当時の自分の考えは非常に単純で、「できないと言われたら絶対にやってやろう」自分をよく思わない人に証明したいと思っていた。
肖戦にとって、24歳でのバトル(燃烧吧少年)への参加は人生の3つ目の重要な結び目だった。
それ以前はデザイナーを生涯の職業だと考えていたこともあった。
デザイナーとしての仕事を諦めることに葛藤はありったのだろうか?
「僕は迷ってはいません。」
彼はきっぱりと答えた。
「やるかやらないかの選択に迷いはあるかもしれないけれど、一旦やるとなったらやり通します。」
決断したときに肖戦はあまり多くを考えなかった。「何を諦めて何を得るかは考えませんでした。」
バトル(燃烧吧少年)が終わってから、肖戦は「調整」の期間を経験した。
一定の露出率から家で「何もしない」状態まで、このギャップによりメンタルを調整する必要があることに気づいた。
「そのおかげでダイエットをして毎日ランニングを続けることができました。」と彼は笑顔で回想した。
この仕事のない日々がかえって肖戦に落ち着きを与え、はっきりと悟らせた。
「未来がどこにあるか分からないのだから、まずは今の自分をベストに調整し、チャンスが来たらそれを掴もう。」
常に歌とダンスの練習を続け準備をした。
番組内で指摘された“フラフラしている目”の問題もおろそかにせず「鏡を見てこの問題に注意を払って意識したこともあります。」と語った。
「これまでに後悔したことはありますか?」
「いいえ、まったくありません。」
彼はほとんど考える間もなく言った。
「後悔」というテーマについては肖戦も以前の話で一度触れた。
バトルに参加する前、父親は「一度決めたら後悔するな」とよく言い聞かせ、「後悔することは何もないよ。しっかりやるから。」と彼は答えた。
肖戦の世界では一度決めたら必ず全力で向かっていく。
なぜなら「もう戻る道はない、後戻りはできない」からだ。
肖戦は自分自身を「極度に安心感が欠如している(不安を抱えている)人」だと認めているため、目標を決めるとそれを達成するために一生懸命に取り組み、常に「筋肉をピンと張る」ことを自分に言い聞かせ、このプレッシャーをモチベーションと考えている。
しかし、この安心感はどこから来るのだろう?
肖戦も理解できず、「知っていたら、(この感覚は)もっと良かったかも」と分析した。
今、肖戦は以前ほど迷ったり動揺したりすることはなくなり、「騒々しい声を脇に置くことができ」、より決意を固め、「要点をまっすぐに言う」ようになった。
肖戦はこれらが演技によって自分に与えられた変化だと考えている。
彼の感じる能力はより強くなり、より多くのライフスタイルを理解できるようになった。
演じることは間違いなく彼にとって重要なターニングポイントだ。
私たちは2017年の春に彼と再会した。
その時彼はすでに映画・ドラマ業界へ進むという明確な方向性を持っていた。
本誌記者は肖戦を見たときの様子を
「彼はとても礼儀正しくて思慮深い。カジュアルな白いシャツを着て痩せていて背が高い。
一晩中リハーサルを待っていたファンのことも忘れずにこう言った。
"夜は寒くてみんなが凍えて風邪をひいたらいけない。"と。」
その時、彼は急いで《蒼穹の剣》のクルーに戻ろうとしており、すでに《狼殿下》への参加も確定していた。
「事実は彼が俳優の道を選んだのが正しかったと証明している。」
肖戦は、あまり遠い未来のことを考えるのが好きではなく、ほとんどの場合「ちょっとぶらぶらしてみる」。
「登山のようにひとつステップを上がったらまた次のステップをよじ登る計画を定めます。」
今を生きる、目の前のことをしっかりとやる。
それが肖戦の人生哲学だ。
そして、現在の小さな目標は「すべての作品をしっかりと演じて撮ること」であり、自分の本職である仕事をしっかりこなすことが俳優としての基本的な修養であると彼は考えている。
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リンク切れ対策のためにスクショを貼らさせていただきます🙏
やっぱりこの記者さんの燃烧吧少年のインタビューはこれかな?
雑誌《南都娱乐》他のメモはこちら↓
あとQ&Aもあってそちらもかなり面白いんですが、、
とにかく長い💦💦
またぼちぼちやろうと思います😂